似合う、の正体
「これだ」と思えるネイルの色がなかなか見つからない。
指先だけ見ていれば似合っているように思えても、ふと鏡に映るとどうにも違和感がある。
それもわくわく興味をそそられる類の違和感ではなく、むずむずと落ち着かない類の嫌な違和感だ。
行きずり程度の他人から見ると「そんなことない」と言葉が返ってくるほどの微妙で些細なもの。
髪型の提案を受けるときも服を試着するときもそう、お世辞を抜きにしても、「似合うよ」の言葉にすっきり気持ちよく頷けない自分がいる。
「似合う」って一体なんなのか。
人間は人形ではない。
外見から期待されるキャラクター性そのままに生きなければならないことはないし、
実際、本人の外見と内面それぞれの印象間に何のギャップもない、なんてこともそうそうない。
例えば、体つきががっしりしていると逞しそうに見えるが実は繊細な性格だったり、
キリッと凛々しいお顔立ちから安直に想像したのとは裏原にお茶目な性格だったり、
ふんわり儚げな印象からは想像すらしないほどリアリストだったり。
外見の第一印象は、無意識に「こうあるべき」という偏見や経験則に当てはめて感じてしまうもので、
そこに本人からの「私はこういう内面を抱えています」という意思やメッセージが含まれているとは限らない。
相手の外見ばかりに気を取られて「こういう人物だろう」と思い込んでいざ本人と接してみると、
実際とのギャップに程度の差はあれど驚くというのはよくある話で、それは自分と誰かとの間にも漏れなく起こっている。
そういったギャップを知った相手からの「そんな人だと思わなかった・がっかりした・裏切られた」などの、
理不尽な言葉にいちいち傷ついてしまうことに内心うんざりしつつ、つい他人の期待通りに振る舞ってしまう、
あるいは殻に籠もって他人を寄せ付けないよう振る舞ってしまうが本意ではない、
そういう心当たりがある人にとって、「似合うの正体」について知ることは、
生きる上で緊張の糸を緩め肩の荷を下ろすきっかけになるのではと思う。
外見の第一印象は無言のコミュニケーションだ。
自己紹介めいた言葉を連ねる前に多くの視覚情報が相手に伝わり、良くも悪くも勝手に解釈される。
私にとっての「似合う」は、髪や化粧や服が本人の外見と内面の両方に調和している状態を言う。
「似合う」よりも「調和」。
「バランスが取れた状態」という表現のほうがいいかもしれない。
他人が「似合う」と言っても、本人が「自分ぽくない」と違和感を抱くならそれは「調和していない」し、
その逆で、本人が無意識に放つあらゆる情報から内面を感じ取った他人が、「こうすればもっと、この人の魅力的な部分が伝わるのでは」と思うこともある。
いずれにせよ最終的に重要なのは、本人が心地よく感じる状態か否か。
自分にないものを持つ誰かに憧れることは、プラスに働くこともあれば、毒になることもある。
自己否定をスタート地点にした「似合う」探しは、エスカレートする程ないものを欲しがって他人を羨んだり、
自信のなさや諦めから殻に籠もって不機嫌に振る舞ってしまったり、自己嫌悪がセットでついてくる。
否定することが習慣化すれば、いずれそれは人格となる。
大袈裟に思えるかもしれないが、十分にあり得る話だ思う。
内面を可視化して、自分が「こういう人間だ」ということが大きな齟齬なく外見から相手に伝われば、
不本意な扱いをされたり理不尽に失望されたり、また不覚にもそういった他人の反応に傷ついたり自己嫌悪に陥ったり、気力の無用なエネルギー消費を減らせる。
また、本来好きなものと似合うものの両方が調和していることで、「お洒落でいなければ」と肩肘張って無理をすることもなければ、
「好きなものと似合うものは別なのだ」と諦める必要もない。
パーソナルカラーやシルエット診断などの、お洒落の指南書・垢抜けるための教科書を眺めるだけでは得られない、
自分に馴染む「似合う」を作るための材料は、実は本人が一番よく知っている。
ただ無自覚だったり重要視してこなかったり、人知れず秘めていただけで。
鏡の前で座っている限りに分かる、外見の色形に似合わせるだけの仕事を、私はしたくない。
「カウンセリングは必要ないから言う通りしてほしい」という要望にも応えられない。
施術が終わり、その人が自然に動き出した途端・話し始めた途端に、あるいは昨日までお気に入りだったはずの服を着た途端にちぐはぐで、
鏡を見ることも笑うことも人に会うことも、嫌になってしまうかもしれない、そんな想像ができてしまう仕事はしたくない。
自分はどんな風でありたいか、
どういう状態が心地いいか、
他人にどんな風に見られるのが嫌か、
本来どんなものが好きでどんなものが嫌いか。
では髪が化粧が服が、あなたに対してどうあれば調和が取れそうか、
その中で髪型を作る身として、私のアイディアや技術が手助けになれば嬉しい。
人間は人形ではない。他人が受け取る印象そのままを演じる必要はない。
外見から期待されるキャラクター性そのままに、生きなければならないなんてことはない。
「似合う」に対する違和感や心地よさといった自身の感覚に鋭く、自分の意思で「これがいい」を選び続ける結果は、
誰にも取って代わられることのない個性として蓄積される。
あなたは人形ではない。
「自分になっていくこと」、それが「似合う」の正体なのだ。