グレイヘアの広まりに見る理想像からの解放と、なお潜む分断
広まりつつあるグレイヘアの選択肢、肯定的に楽しまれている様子をお見かけするのは、美容師としても個人としても、とても嬉しく心地いい。
一方で、先日見かけたグレイヘアの方による、染めている方に対する否定的発言には疑問符がまとわりついて離れない。
理想を推奨する過程で当てはまらない「それ以外」を否定することは、学生・職種への髪型規制や性別や人種にまつわる問題にもあるように、権利や選択肢を奪うことにつながる。
髪は体の一部。他人がとやかく規制するものではない。
形も色も、纏う各々の幸福を元に選べるものであって欲しい。
「らしさ」からの解放
子供時代には「子供らしさ」を求められ、次第に「男の子らしさ・女の子らしさ」を追加される。
就学すれば「学生らしさ」、就職すれば「◯職らしさ」、立場が増えれば「◯らしさ」、
出る杭打たれる社会において、髪はいつも「らしさ」で規制され続けている。
歳を重ねるごと、経験が増えるごとにどこかの誰かによる理想像を強いられるんだろうか。
いつになったら思いのまま、好きな髪型にできるんだろう。
グレイヘアを楽しむ方々の姿に魅力を感じるのは、得体の知れないまま大きく膨れてのしかかる「らしさ」の押し付けを跳ね除けて、自己卑下も他者否定もなくご自身で思考して意思を尊重する、しなやかな強かさではないかと思う。
年齢も性別も立場も国籍も超えて行き着くところは「おおよそ白」という共通色、
あらゆる「らしさ」の境界線を曖昧にするこの色は、加齢に起因して白へと移行していく場合、例外なく歳を重ねる多くの人が共通意識を持ちやすい。
少し白が混じってきた、
いずれは白くなるのだろうか、
今どれくらいが白いのだろうか、
もう大部分が白いのだろうか。
今はまだそれぞれの境界線の中で疑問や不安を大なり小なり抱える人にとって、「おおよそ白」は雑念を包括して究極にシンプルにしてくれる選択肢で、そうするかしないかは別としても、「これでいいのだ」という小さな安堵をくれる。
髪の「白」は、得体の知れない「らしさ」という理想の押し付けからの解放、その象徴のように見えるのかもしれない。
理想を肯定するために「それ以外」を否定する必要はあるのか
髪を染めるも染めないも各々に事情があり、それがどんな色かについても個人の権利、「グレイや白」以外の色も形も当然否定されるべきではない。
先日驚いたのは、グレイヘアを推奨する団体のトップの方が、染めている不特定多数の方に対して否定的な発言をしていたこと。
言葉の綾かもしれない。
けどこれを機に、この発言に抱いた違和感の正体を考えてみたい。
「染めないこと・地毛であること」が最重要で目的なのだとしたら、それは「らしさ」からの解放とは程遠いのではないか。
染めないことを推奨するあまりに「染めること」を否定して、「年齢相応の髪色らしさ」をやんわりと強いている。
それは、恐らく多くの人が幼少期から散々経験してきたあらゆる形の「らしさ」の延長上にあり、対象物を変えただけの理想の押し付けに思える。
学生や社会人への髪型規制、性別への理想イメージの強要、立場や年齢に対する無言の同調圧力のように、理想を認めさせるために他の出る杭を打つ構造で、多様性を謳いながら「一切染めない地毛のグレイヘア至上主義」になってしまっていないか。
そこに感じるのは、前述のような解放感にある「これでいいのだ」という安堵ではなく、「これから先も正体不明の理想像に強いられなければならないのだろうか」という緊張と疲労感。
要するに、「みんな違ってみんないい、とやかく干渉せずに好きにさせてくれ」。
髪が何色でも、自他の意思を尊重するしなやかな姿は美しい
白でも黒でもいいしグレーでもいい、赤・青・黄でも紫・緑・茶でも、混ざっていても、何色でもいい。
他者や自意識が無言で強いる理想像に己の意思で「NO」を表明し、ご自身にとっての「こうありたい」理想を叶えようとする、それでいて自己卑下も他者否定もしない軽やかさは、髪が何色だろうと、その根底の価値観が美しくて私は惹かれる。
美容師としても、ご本人の日々がより良くなりそうな選択なら何色だって応援したい。
髪の「白」は多くの人にとっての共通色で象徴になりやすい。
けどそれだけが至上ではなく、正解は文字通り十人十色なのだ。
誰かの理想像に翻弄される現状を解決するのは、染めるか染めないか、黒か白かの二元論ではない。
その間には心理的にも色彩的にも幅広いグラデーションがあり、各々にとっての「ちょっといい感じ」「これが好き」「これでいいのだ」を叶える方法は、業界の研究者はじめ美容師まで、多くの人が日々様々な選択肢を模索して磨いている。
髪は体の一部で、それと付き合うのもどうするかを決めるのも、持ち主自身。
纏う本人が、暮らしの中で否定的感情に苛まれることのない色や形を、のしかかる誰かの理想像のためではなく、自分のために自分の意思で選べるようにあって欲しい。