BLOG

文筆家・岡田育さんの「40歳までにコレをやめる」を、都心の美容室大激戦区へ向かう通勤電車の人混みの中、お守りのように握りしめて読んでいた。
狭い空間で、魚の小骨のような違和感が物理的に形を為して、個人の領域などお構いなしに圧迫しては逐一咀嚼する意義を考える間もなく通り過ぎてゆく情報過多、そんな毎日に目が回りながら、小さな違和感を見過ごさず整然と言葉にされたものを読んで考えることは、自分と他者の境界を明確に保つ一つの方法だった。

私にもやめたいことがある、「心地よく穏やかにご機嫌に暮らしたい」というポジティブな理由で。
手元にあるうちは「ないと後々困るのではないか」とつい残してしまうが、手放して過ごしてみたら案外なんとかなる、寧ろ無い方がすっきりして調子がいい、そんな手荷物や部屋の整理整頓のように、頭の中にあるものも少しづつ片付けていきたい。
その一つが、「事実と感情、自分と他者を無意識にない混ぜにするのをやめる」ことだ。

浅く穏やかな関係の水面下にある思慮深さ

まるで書類審査か何かのような、個人情報の交換をしなくても関係が成り立って続いていく、そんな距離感がちょうどいいなとここ数年思う。
幼い頃のように、さしたる目的もなく、ただその人自身やその人が取り組んでいる何かに興味があるといった極々シンプルな動機による関係。
お互いの興味について時おり聴いたり話したりしては少し物足りないくらいで「またね」と別れる。対面でも手紙でもメールでもいい。
「また」があってもなくてもよくて、双方の意思やペースを尊重しながら流れに任せ、次の約束も明確な意図も持たない。
その関係性は、一見「浅い」ようでいて「薄い」のとは恐らく違う。
時には深くに触れることがあっても、時には助け合っても、思い合っているからこそ自他の境界は保ったまま、相手に縋らず委ねず期待しない。
わたしはわたし、あなたはあなた、双方が自立していてこそ成立する爽やかな軽やかさのように思える。

ここ半年ほどで、10年近くぶりに連絡を取るようになった友人がいる。
互いに知らない空白期間のことは自発的に話さない限り話題にのぼらず、最近観た映画や本や出来事について、文通のようにゆっくりのんびり、やりとりが続いている。
今どこにいて何をしているのか、あれからどんなことがあったのか、聞いたところでその人自身への好意や信用はきっと変わらないし、過去や未来に相手がどうなっているかという私的な好奇心を満たすことよりも、今こうしてやりとりをして、ふとした言動に人柄や思考や経験を垣間見る機会があって、豊さを小さく分け合える、「今ここにあるもの」を大切にしたいという、表には出ない静かな思いやりに心が安らぐ。

一方で、そんな体験をより強く印象付ける、全く別の状況にも遭遇した。
初めて会った方とご挨拶した流れで、先方はご自分からご自身の正確な年齢・家族構成・ご家族の職業・ご家族の家族構成・出身地現住所・経歴・将来の展望、過去や現在への不満を一通り話し、ひと段落すると私にも同じことを求めた。
その方にとってはそれが自己紹介の方法で、他意も悪気もないのだろう。
けれど一つ答えると際限がないと踏んだ私は「また追々に」とにっこり済ませ、呆気に取られた先方の反応に、心理的パーソナルスペースを初手で守る方法と、無駄にダメージを負うことなく一言で終わらせる便利さを学んだ。
例え「少し面倒で不可解で不思議な人」と思われようと、相手にとって都合のいい質問だけに答え、その知見と感情で形成された「定規」に押し込められては勝手にイメージを作り上げられることのほうが、私はもうご免なのだ。するのもされるのも。

事実と感情、自分と他者、それぞれ別のもの

よく知らない相手について何かの情報が欲しい時、自分の中にある「定規」に当てはめやすい情報を尋ねるのは確かに手っ取り早いし、大まかな像を掴むために役立つこともある。
定規の目盛りは、典型的なのは年齢や性別だろうか。
○歳なら△が普通、○歳なのに□なんて、
○歳ならそろそろ◇だね、○歳なんだからいい加減▽なのでは…などなど、
ことあるごとに社会が作り上げた巨大で透明な定規で測られ、はみ出した途端に珍しがられ世話を焼かれ苦言を呈され、なぜか「定規の持ち主の感情」が「他者の単なる事実」を放っておかず、しばしばそそこにあるはずの「当事者の感情」は蔑ろにされる。
それはまるで、他人が列からはみ出すことを妬み、測れないことを恐れているようにも見える。
けれど、年齢、性別、出身地や現住所、職業や立場、経歴、パートナーの有無、子どもの有無など、他人の庭にずかずかと踏み入って自前の定規に押し込めても、あくまで自分の知見と感情で作り上げた偶像をもとに「知ったつもり」になっているだけで、実際のところ、その人のことは知り得ない。
事実と、自分の感情と、他者の感情、それらは別々のものなのだから。

決めるのは本人

美容師としての立場の時も、私の無意識の定規がお客様と私自身の選択を狭めてしまわないように、と強く思う。
例えば「ご職業やお立場は、ご年齢は」と訊いたところで、それに相応しい髪型か否かを決めるのは決して私ではないし、ましてや職業や立場や年齢でもない。
自分より1年単位の正確さで年下か年上かを聞いたところで、相手に敬意を持つか否かを決めるのは数字ではない。
髪型をどうするか髪色をどうするか、それは「日々の暮らしがどうなるか」でもある。
どんな日々なら心地良さそうか、どんな髪型ならそれが叶いそうか、私の仕事はそのサポートをすることで、最終的にどうするかを決めるのは、私でも誰かでもなく皆んなでもなく、ご本人だ。

「○○なのに、それは普通ではない」「□なんだから、いい加減△しないと」などと、つまらない定規を持ち出して他者を抉り自分の価値観を狭め続ける、そんなことを無意識に続けていく日々を、私は望まない。
他人の定規に押し込められる嫌悪感を抱きながら拒絶できない日々も、心地よく穏やかでご機嫌とは言えない。だから自覚して自問して、やめていきたい。
事実と感情、自分と他者を時に混迷させてしまうことも、誰かのそれに付き合うことも。
「君は普通より物事を考えすぎる」と、巨大で透明な定規を誰かに持ち出されても、小骨で息が詰まる前に自分の頭で考え、言葉や行為に変えていきたい。
「それはそれ、これはこれ、私は私、あなたはあなた」と、軽やかに、たおやかに。

関連記事一覧

error: Content is protected !!